「月記」
3月 某日
揺れている
俺が? 大地が?
規則的に
軽やかに
包まれている
頭の先からつま先まですっぽりと
そよ風にすら晒されぬよう
大切に
音が聞こえる
耳に馴染みが深い音
カポ‥‥カポリ‥
蹄の音
風の音
幾夜も聞いた、懐かしい心音
眠りをさそう心地よい振動
体を包む力強い何か
骨が軋む、あちこち痛む
視界は闇
霧がかかったように思考がまとまらない
俺は誰だ
ここはどこだ
何も分からない
しかし焦りはなかった
俺は今目覚めたばかりだが、安全だ
「よぅ 気づいたか」
男の声を聞き、胸が締め付けられた
しかし逆に筋肉は限界まで弛緩して
全ての体重を男の腕に預けた
安全の理由を知ったから
俺は誰か
男は誰か
分からない
しかし俺は安全だ
この男の傍らにいる限り
「‥‥ジ、ンさん‥‥‥」
「あぁ、しゃべれるか」
「‥‥‥」
力ない、ノイズまじりの掠れた声
これが誰とも知らない俺の声
男はジン
ジン=フリークス
己の名を忘れても
死んで魂となっても
俺はこの男を忘れない
死んで‥‥魂となっても‥‥?
俺は、死んだのか?
何故そう思う?
「遅くなって悪かったな、‥‥間に合って良かった」
やはり相当危険な状況にいたらしい
そして助かった
ジンに助けられた
何度目だろう、ジンさんに助けられるのは
そうだ、俺はずっとこの人の側にいた
助けられ、守られる立場の者だった
いつかはこの人を助けたいと、守りたいと願っていた
「カイト」
そう、俺の名はカイト
彼の声は俺の細胞一つ一つに染みわたり
たった一言で真実の全てを教える
「体、痛むか」
うん、あちこち痛む
でも平気です
もう少し眠りたい‥
「まだ少し寝てろ もう安全だから」
知ってるよ
よく分かってる
蹄の音は続く
俺は馬上で布にくるまれ、ジンに抱かれて移動している
ここはどこか
何があったのか
ジンが言わないのなら、今知る必要はないのだろう
それから幾度か目覚め、その度に場所は違った
広い車内だったり、ジンの専用船だったりした
どの場所でも、ジンの腕を強く感じた
最後に目を覚ました場所は、懐かしい森、白い家
よく知る風景 ジンさんの森だ
家には数名の白衣の男たちが待ち構えていた
ボソボソと小声でジンと話しあった後、俺の体に触れてきた
俺はジッとしていた
というより、体の自由が利かないのでジッとしている他なかった
ジンさんも傍らに立ち、手の平を俺の額に乗せた
優しい目が見下ろしている
柔らかな光が俺を包んだと思うと、ゆっくりと体に浸透してくる
まるで湯に浸かるような心地よさだ
時折、ピリッと電気質なものが頭の中で発光する
急激に体が重くなる
そして激痛が走った
呻くと、体を押さえつけられた
「我慢しろ、眠れ」
薄れゆく意識の中で気づいた
俺の体は神経までも傷ついて
痛みを感じる力さえ無くしていたことに
4月 某日
あの日の後、目覚めると衣服のように体中にギブスを着せられていた
身動きできない俺にジンさんは三度三度のメシを運び
僅かに見える素肌を拭き清めた
患部に手を当て、あの暖かい光を注ぐ
順当に回復し、回復する度に俺は疲労し深く眠った
数日ごとに一つ、また一つとギブスがはずされてゆく
失われていた記憶は庭に咲き始めた桜のように
ゆっくりと着実に空(くう)を埋めていった
ジンさんの介護は素っ気無く、思いやりに満ちてる上に的確だった
俺は居心地が悪くてたまらなかった
50年後、絶対に俺がこうしてジンさんを介護してやると心に誓いながら、
ジンの運ぶスプーンに口をつけた
50年後?
いや、ジンさんは100年経っても今と大して変わらないかもしれないけれど
5月 某日
やっと半分ほどのギブスが外れた
自分の体は自分が一番よく分かる
まだまだ立ち上がるのは無理だ
「心配するな 全部元通りに良くなる」
ジンの言葉を疑う根拠はまるでない
「この傷は残すか? チャームポイントになるぞ」
ジンさんは俺の鼻筋をくすぐるようになぞると、クスクスと笑った
俺は返事をしたけれど、虚ろな視線が宙をさまよっただけにしか見えなかったろう
ギブスは取れても全身包帯だらけだし、
言語中枢と声帯の回復には更に時間がかかりそうだ
片言の言葉しか思い出せない
喉が発声の仕方を忘れたように呼吸が音にならない
流暢に口にできる言葉は目覚めた時から増えていない
未だに「ジンさん」だけだった
言葉も無くベッドの中で必死に手足を動かそうとする俺を
ジンさんは毎日長いこと見つめていた
時に頬杖をつき、時に回したイスの背にもたれて
まるで生まれたての赤子を飽かずに見つめる父親のように
何が彼の興味をそそるのか
確かにこれほどの重症を負い、生きている患者も珍しかろう
しかし今日、ふとその目を見て、俺は唐突に理解した
愛されているのだと
想像でなく理屈でなく、天啓のように突然に
視界が広がりあらゆる色が満ちて、これまでモノクロの世界にいたと知った
この雄弁な瞳に、なぜ今日まで気づかなかったのか
ジンさんがそれを言葉で伝えたことは無かったけれど
自惚れというには余りに多くを語る瞳だった
嫌になるほど鈍感なのは、きっと師匠ゆずりだ
この悦びを得て、今この瞬間に死んでも良いと思い、
そしてこの人よりも先には死ねないと思った
命があることに深く感謝した
死なない為に今日を生きていた昔
明日を生きる為に今日を生きたいと願う今
小さな2つの命を守ることに躊躇いはなかったが、悔いは山ほどあった
遥か頭上の師匠の、せめて足首を掴める程度にならねば俺は死ねない
貴方の為に 己の為に
ジンが部屋を出た後、傷の痛みで急に涙が流れて止まらず、少し困った
6月 某日
今日もジンさんは俺をソファに転がして、傍らで本を読んでいる
俺の治療中、ジンさんは買出し以外に全く家を空けなかった
途切れる単語を懸命につなぎ、掠れた声で留守番くらいはできると伝えても
今は特にやりたいことは無いと言う
我慢のできないこの人に、俺は我慢をさせている
体をひねり、足を持ち上げ、リハビリに励む
しかし無理をしようとすると、強制的に休養をとらされる
つまり絶妙のポイントに手刀が入り、ぐっすりと眠れるわけだ
頬杖をついた横顔をうかがうように、ソファの縁に手をかけゆっくりと立ち上がった
チラリとこちらを見られてドキリとしたが、ジンさんは何も言わず本に向き直った
安堵して、壁伝いにそろそろと歩く
下肢が少し痛む 背中に心配げな視線を感じる
構わず台所に向かった
さらに台所の奥の洗面所へと向かう
介護で一番苦手だったのは、歯磨きを手伝ってもらうこと
口をゆすいだ水をジンの持つ洗面器に吐き出す
嫌な顔をするジンではないけれど、その度に気分が落ち込んだ
やっと自分で歯を磨ける 顔も洗える
「あ、おい‥‥」
呼びかける声に構わず進んだ
薄暗い洗面所に入り、もうすぐ洗面台にたどり着く
「おい、カイト あのな‥‥」
ジンがソファから立ち上がる気配がしたが、俺は意地になっていた
体中の痛みが酷かったが、洗面台に手をかけ歯ブラシに手を伸ばす
その時、目の前の鏡に何か映った
何かが‥‥映った
‥‥‥人ではない‥‥何か、異形の‥‥‥‥
「‥うっ‥‥」
「落ち着けカイトッ!!」
「‥ぅわぁああぁあぁぁあぁあぁっっ!!!!!」
7月 某日
初夏の森に絶叫が響き渡ったあの日
倒れた拍子にまた4箇所ほど骨折した俺は、今再び洗面器の世話になっている
まぁお蔭で腹から声が出せるようにはなったけど
end. (060516)
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