「再び」
------------------------------------------------------------------------
欲しい 欲しいと貴方は言う
私は全てを差し出した
もう何も残していないのに
もっと もっと 全部欲しいと繰り返す
私がかつて所有した 生きて脈打つ臓物も
縫って流れる苦い血も 今は貴方だけのもの
気まぐれに味わいたいというのなら
この体を二つに屠り 一口喰らって打ち捨てればよいだろう
安いワインに飽きたというのなら
この喉笛を喰い千切り 喉を潤せばよいだろう
惜しむものなど何もない
なのに貴方は遥か高みに目をこらしては
子供のように欲しいとねだる
こんなにも全ては貴方の中にあるというのに
ジンの意識が戻らない。
死んで傀儡と化した自分を救うため、ジンは己の生命の大半をこの体に
注ぎ込んだ。家に帰り着いた途端、力尽きたようにくずれ落ちその額に
触れると火がついたように熱い。二晩明けても熱は下がらず口に食物を
流し込んでも全て吐いてしまう。八方手を尽くした。ジンをよく知る名医と
呼ばれる医者にも診せた。所見は熱病。それ以上の判断は出来ないという。
ありふれたウィルス。常人に季節風邪をひかせる程度の異物がジンに入り込み、
一切の抵抗力を失っていた体を蝕んだ。出来ることといえば抗生剤と
解熱剤、栄養剤の投与のみ。あとはジンの生命力だけが頼りと医者は言った。
時の過ぎる感覚はとうに失った。
朝が来れば明るくなって、夜が来れば暗くなった。汗にまみれた体を拭う。
乾いた口に水を含ませ、うわ言に答え名を呼んだ。
『介護人は休養をとる義務がある。救護の基本だ』
自分にとって神にも等しい男の教えが今は空しい。
眠らない。眠りたくない。疲労して早く力が尽きればいい。
この場に崩れて魂が離れればジンから奪った生命を
元の体に返すことが出来るように思う。
ジンの黒い瞳を最後に見てから、もう何度目の夜だろう。
暖かな眼差しに包まれることの無い夜は心が底冷えするように寒い。
肉の落ちた体を抱え、その汗を拭く。
肩先に雫が落ちる。
まだ涙を流せる余力を残した自分が恨めしい。
痩せた隆起を辿る雫を握ったタオルで力任せに擦り取る。
何度も何度も圧し擦る。
ジンの皮膚が赤味を帯びて生きていると安堵する。
柔らかい布地が嬲っただけで肌を傷めるほど
弱った体にまた涙する。
持てるもの全てが疎ましい
ジンにもらったこの命さえも
何もいらない
全部くれてやる
だから、目をあけて
目覚めて眠っていたことに気づいた。
陽の光が白いシーツに映えて眩しい。
ジンの体を抱えたままベッドの傍らに突っ伏していた。
身を起こしハッとした。
呼吸が穏やかになっている。触れる肌の熱が引いている。
思わず呼びかける。肩を揺する。
ジンの瞼が苦しげに震えた。
うっすらと睫が持ち上がる。
「ジンさん!?‥‥ジンさんっ!?」
虚ろな目に向かい狂ったように叫ぶと荒れた唇が動いた。
「う‥っせ‥‥‥」
「‥‥‥‥!」
手の甲を口に押し付け、嗚咽を堪えた。
「よぉ‥‥カイト」
一瞬意識を回復し、また深い眠りに落ちたジンが
目覚めるのを傍らでずっと待っていた。
目を覚まし、ぼんやりとした視線が宙を漂うのを見ていた。
見つけて。ここにいる。
願いは叶えられた。
視線が溶け合う。何も言えない。
「久しぶりだな‥‥」
「‥‥‥‥なんか言えよ」
「‥‥変な奴。‥‥あー‥‥‥腹へってきた」
黙って部屋を出た。
重湯を作るうちに実感が湧いてきた。この重湯をジンが口にする。
ジンは生きてる。目をあいて、動いて、話している。
こんなにも嬉しいのに何故自分はろくに声もかけなかったのか。
訳がわからない。話がしたい。話をすればもっと声が聞ける。
鍋を掴み、バタバタと階段を登る。部屋へ駆け込む。
自分の慌てた様子にジンが僅かに笑うが気にする余裕もなく
早足にベッドへ走り寄る。
「俺はどれくらい寝てた?」
掠れた声で細く聞かれても、うまく頭に伝わらない。
「どれくらい‥‥? さぁ、わからない‥‥ジンさん、重湯‥‥
あ、鍋ごと持ってきても仕方ないのに。‥あぁ、匙も忘れた‥‥」
呆れるほどに浮かれている。思考が上ずって支離滅裂だ。
「落ち着けよ」
ジンが苦笑いして言うのに肩の力が抜けた。
これではどちらが病人なのか分からない。
暫し呆然と佇む。
「鍋、そこに置け。危ない」
言われるがままにそうする。
ジンが手を差し伸ばし腕を引き寄せる。
その弱々しさ、温かさに抗し切れず
そのまま二人、縺れるように倒れこんだ。
「欲しい‥‥‥」
熱い声は譫言のよう。
静寂に慣れた耳にジンの息遣いがやけに響く。
額と額を合わせたまま、背中にぐったりと回されたジンの腕は
どんな屈強な力よりも強く自分を拘束している。
「‥‥欲しい‥‥カイト。今すぐ‥‥お前だけ‥‥‥」
ねだる声だけがもどかしく、衰弱した体は抱きしめる腕に
力を込めることも叶わない。離れられずそのまま身を置くと
合わせた胸の薄い鼓動が存在を伝え合い満たされた。
皮膚の触れあう箇所が痛いほどに溶け合って
互いを求める一途な気持ちが交じり合う。
『世の中は広い。欲しいもんだらけだ。
そして俺は、その全部を手に入れる』
嘗てそう言った男の瞳は今、一つのものしか映していない。
失って改めて気づいた狂おしいまでの想いで
唯一つだけを欲して乞うている。
汗ばんだ髪にそっと手を触れた。
欲しい。
ジンだけが欲しい。
分が過ぎる所有は身を滅ぼす。
構わない。
この大きな男が己の内に収まらず
この身が弾け散ろうと構わない。
「俺も‥‥‥欲しい。貴方だけ‥‥」
呟いて、目を閉じた。
end. (040509)
------------------------------------------------------------------------
→トップ
|